「サヨナラ模様」伊藤敏博(桐谷美玲)

1981年8月25日に発売された伊藤敏博2枚目のシングル。 伊藤が国鉄(現・JR西日本)に入社後、北陸本線(現・えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン)親不知駅運輸係などを経て、当時富山車掌区車掌として在職中、1981年5月10日開催の「第21回ヤマハポピュラーソングコンテストつま恋本選会」において、グランプリを獲得。その約3か月後、1980年に発売した『親不知情景/木流し川』に続いて、自身通算2枚目のシングルとしてリリースされた。 オリコンチャート上においては週間5位まで上昇、47.9万枚を売上げ、伊藤自身最大のヒット・シングルとなる。 作詞・作曲: 伊藤敏博 編曲: 大村雅朗 もの悲しいギターの音色とともに女性が好きな男性と別れた情景が歌われ、サビの部分の「だから ねェ ねェ ねェ ねェ 抱いてヨ」の歌詞は印象に残った。 当時の車掌だった伊藤は、国鉄の規定で副業は禁止。出版物と同類にみなされた。レコードの印税は認められたが、その他はすべてノーギャラ。25歳のシンガーソングライターは月給11万9800円から大きく生活が変わることはなかった。 国鉄マンと歌手の二足のわらじ。ポプコンで優勝しながら、堅い職業を辞めなかったのは1つの経験からだった。『サヨナラ模様』をリリースする1年前、伊藤はレコードを発売したことがあった。しかし、全く売れずに歌手という職業の厳しさを知った。そのため周囲が歌手としての一本立ちを促してもこれに応じなかった。活動拠点も東京ではなく、勤務地の富山のままに。「レコーディングで東京に行った時に決めた。東京は住むところじゃない」。 当時松山千春やさだまさしといった大物ライバルが多い中で『サヨナラ模様』がヒットしたというのは、サビのインパクトが大きな要因であったことには間違いないだろう。 女性主人公で歌われているこの歌詞だが、サビで何度も繰り返される「ねェ ねェ」がとにかく印象に残る。 それも最初はわりと穏やかに数も控えめに《だから ねェ ねェ ねェ ねェ》とワンフレーズ4回に抑えていたものが、終わりが近づくと《だから ねェ ねェ ねェ ねェ ねェ ねェ》と早口に6回に増え、そして最後の2セットでは「だから」までも省いて《ねェ ねェ ねェ ねェ ねェ ねェ ねェ ねェ》と8回もまくしたてるようになってくる。 とにかくこの曲を聴く人たちは、伊藤が歌いだすと、早く「ねェ ねェ」を聴かせろよ!という気持ちになるわけ。ところが、また曲の前半はとにかくもったいぶる。このサビに入るまでにお預けをくら&
Back to Top